テーマいちいちせんたくすんのめんどいぞコラ
間違えて「笑い」のカテゴリができてしまたではないかコラ
しかも変更したのに表示が消えないとはどういうことなんだ
それは何か私の人生お笑いだといいたいのかそういうことなのか
ぎみー集中力とか体力とかそこら辺
めしくったらちょうねむい
ねよっかな
ねてもどうせめがさめるけど
9.11と自殺防止週間
てゆかセクシュアルってなんだ
ホモ、ヘテロ、バイ、エイ、、、LGBT、
あかん限界 ほんまねむい
間違えて「笑い」のカテゴリができてしまたではないかコラ
しかも変更したのに表示が消えないとはどういうことなんだ
それは何か私の人生お笑いだといいたいのかそういうことなのか
ぎみー集中力とか体力とかそこら辺
めしくったらちょうねむい
ねよっかな
ねてもどうせめがさめるけど
9.11と自殺防止週間
てゆかセクシュアルってなんだ
ホモ、ヘテロ、バイ、エイ、、、LGBT、
あかん限界 ほんまねむい
コメント
というか私もてくてくさんのカテゴリーに「笑い」を見つけたときはおお?!と思いました。間違えちゃったんですね。そしてそのつっこみに思わず吹き出してしまったごめんなさい。
カミュ!素晴らしい引用ですね。自分の中でものすごく納得できるものがありました。知るということで言えば、パスカルも「われわれは確実に知ることも絶対に無知であることもできない。われわれはつねに定めなく漂流し、一方の端から他方の端へと流されている。」と語っていました。認知の一方でいつまでも未知であるというのはなんとも歯がゆいアイロニーですね。
感情の不条理というのは自分と感情との間に、ということですか?
「不条理を見つめ続け、しがみつかなれけばならない。」自己に対する宣戦布告のようです。
石の収集を趣味としている方っていますよね。人間性がないからこそ、人は石に惹かれるのかしら。んんん、たかが小石されど小石ですね。
“純”自分というのは、主観とか個性とか本当の自分とは少しちがって、んんん、うまく言葉にできないんですが、ううーあえて何か言葉を当てはめるとしたら・・・骨、かな。残骸のようなものでもいいんです。とにかくそこに残って、しかも最初からあったもの、みたいな。・・わけが分からないですね。
「関係性の中、まさに影響を受けていてこそ「誠実な感情」は体現されるのに」って、胸を打たれました。本当に浅はかだ私は。なんだか目が覚めたような気分です。
身体的なコミュニケーション。
まさに目下の課題です。ドンピシャで申し訳ないんですが、私は特に暴力に執着していて、なかでも愛情の表出としての暴力についてあれこれ考えていまして、でもそういう本や資料ってなかなかなくて・・SMかDVかですよ。そんな馬鹿な!しかも加虐者が女性となるともう皆無です。女性には加虐性がないっていうのか。てくてくさんも「セクシャルって・・」と書かれていましたが、私も既成の性別概念やジェンダー表現にすごく疑問があるしアンチなんです。男は女を通してしか女を理解できないわけじゃないし、女は男を通してしか男を理解できないわけじゃない。男性も女性もインターセクシャルも人間にすぎないのにって。
・・話がそれました。身体的なコミュニケーション。communicateしてこその身体だとも思えます。転じて、押井監督は『イノセンス』を作ったとき「現代人は身体がない」「身体を失った」とたびたび言っていました。「自意識と身体は決して両立しない」とも。
私は、わかるようでわからないんです。いざ自分に置き換えてみると、いったいどれが外側から感じた身体で、どれが内側から実感した身体なのか。本当の身体を取り戻すためには、私たちは沈黙するしかないのか。はあ。自分で投げかけておいてこんなしどろもどろですみません。。
私の方こそまったくもって恐れ多いです。しかもコメントは1000字以内しか送れないということで、二回に分けてしまいました。いつも長々とすみません。だけど、ボールならどこまでもひろいに行きますそりゃもう犬のように。なので鬱陶しかったらいつでもミットを投げてください!
引用、読み返してみたら目も当てられないくらいひどくって、申し訳ないです。
>感情の不条理
感情の“リアリティ”ってもの自体の存在について言及しようとしたのですが、文になってなかったという。申し訳ないッス。
補足しておくと、不条理、つまり知ろうとしても知ることができないというテーゼ(?)の下では、感情についても同じで、その感情の実感があったかどうか確証を与えることはできなくなる。よって感情の“リアリティ”なんてものの存在も、実はあやふやなのではないか、と思ったわけです。
そのことを感情の不条理と呼ぼうとしたのですが、あんまりよろしい表現ではなかったと思います。
>“純”自分
何かを取り除いてったあとに残るものってことでしょうか!(あ、そのまんまか…)
えーと、それは何か、自分の存在がその種々雑多な“何か”によって形成されているということが前提にありそうです。ちょっと乱暴かもしれないけど、細胞や器官の集まりが肉体を形成するように、ということ?
なんだろう。そう考えてみると、後には何もなくなってしまうのでしょうか。すなわち、もし見聞きしたことや学んだことを剥ぎ取っていったら。自分の思考でさえ、他から影響を受けてきた結果なのだとしたら。まったく外界から干渉されないでいるなんて、おそらくは不可能だし。
なるほど。それじゃなんだか、“自分”なんてのは土くれ(或いは小石?)と大して変わらない存在のようにも思えてしまいます。
文脈上あまり意味のない例えかもしれないけど、でも、体を形作る細胞でさえ何かの化合物のあつまりであるわけで(ごめんなさい、科学の知識はないに等しい)、それならばもしかすると精神においても、これ以上分離不能という原子みたいなものに辿り着くことは出来るのかもしれないですね。
それは、固有しているとはいっても、すべての人間が持つ固有なら共通と言うこともできるってこと??目が二つに、鼻と口がひとつづつなら、、、ああ、確かに、そういうふうに抽象化もできますね。それならば、目の形とか鼻の形とか、あと足が速いとか耳がいいとか、そういう身体の違いっていうのは些細なものでしかないって言うこともできる、ということ???
>女性の加虐性
笑っちゃうんですけど、うちのおかんは滅茶苦茶怖かったですよ。田舎なのもあったけど、言って聞かなきゃしょっちゅう叩く(笑)。ああでも母から子へってのは“女性の加虐性”とは全然違いますね。
あと、そうだな、女性から男性への傷害事件の公判を傍聴したことがあります。詳しくは覚えてないけど、確か恋愛のもつれから、その女性は男性をアイスピックでメッタ刺しにしちゃったっていう。。。そのすぐあとに夫から妻へのDV事件を傍聴したんですが、そう考えてみると対照的な事件ですね。被害者と加害者。
>体を失った現代人
なんだろう、あたまでっかちになりすぎたってこと?
外側からの体と、内側からの体???
なんか、安部公房で、内側と外側がひっくり返っちゃった人間の話があったような?
押井さん、ちと借りてくるかな。よく聞きはするけれど、まだ見たことないのです。。。
そういう考え方、いいですね!いいですねっていうか、えーと、いい意味で!おもしろい。
「あなたはイスラム教徒?ユダヤ教徒?キリスト教徒?それとも人間?」
この前TVでやってた、パレスチナ問題を扱ったドキュメンタリーの中で紹介されたフレーズです。実は、現地にあるただの壁の落書きなんですが、すごく印象に残ってます。
(勿論、この言葉だけを切り取ってラブアンドピースを主張する気なんかないですし、そんな資格なさそうです。。。)
結論を出すのはすごく簡単だと思うのですが、それよりも、よくよく吟味して検討を重ねたいですね。ひねくれてるって言われるかもしれないけど、もっとじっくりものごとを考えたいなって、思ってます。
ご期待に副うようなお返事だったかどうかわかりませんが、そんな気持ちを込めて。